2009年

ーー−9/1−ーー 穂高岳登山

 
先週の24日(月)から27日(木)にかけて、三泊四日のテント山行に出掛けた。場所は上高地から涸沢、穂高岳。人気の登山エリアであるが、私にとって涸沢に入るのは、7年ぶりだった。

 先月末に予定していた「北アルプス横断縦走」は、天気が悪いため中止になった。その後、相棒のM氏から、原計画は来年に回すとしても、とにかく何処かの山に登りたいというリクエストがあった。

 8月の上旬は、M氏の仕事の関係で、日程が取れなかった。もっとも、この夏は異常な雨天続きで、例年なら登山に適した上旬も、山へ向かうような天気ではなかった。

 中旬は、私の方の都合で、つまりお盆にからめて家族が帰省したので、家を空けることができなかった。その期間が終わり、土日を外して、このような日程となった。

 8月も下旬となると、山の天気は不安定になる。半分は雨を覚悟しなければならない時期である。しかし今年は、梅雨空のまま立秋を迎えた異常気象で、例年通りの天候判断は通用しないようであった。お盆が明けてから、安定した晴天が続くようになった。22日の涸沢は、「この夏一番の天気」だったと新聞で報道された。

 はたしてこの四日間は、素晴らしい晴天に恵まれた。雨は一瞬も降らなかった。この時期にこのような天気に遭遇するのは、まさに幸運と言えるだろう。

 計画は、涸沢から奥穂高岳に登り、北穂高岳を経て、槍ケ岳まで縦走するものだった。一般登山路としては、北アルプス屈指の難コースである。そこを、幕営装備一式を担いで登るのだから、荷の重さに対する不安があった。荷が重ければ、それだけ動きが悪くなり、疲労もかさむ。できる限り装備を軽くするように努めた。数十グラム単位で、軽量化のアイデアを出し合った。最終的に、各自水2リットルを含めたフル装備で、私が16Kg、M氏が11.5Kgであった。荷の重さの差は、体力のバランスから妥当だと思われた。

 初日は涸沢まで。私は過去何度も歩いたコースだが、M氏にとっては未知の世界である。そもそもM氏は、昨年の常念岳から燕岳までの縦走が、北アルプスのデビューであり、今回がわずか二度目の北アルプスである。私にとっては見慣れた景観も、彼にとっては大きなインパクトのようであった。私は、新鮮なM氏の感動を羨ましく感じた。

 涸沢は岳人のメッカであり、シーズン最盛期はテント場も山小屋も、相当な混雑になる。地元のニュースによれば、お盆休みさ中の14日は、涸沢カールは300張り近いテントで埋め尽くされたそうである。その10日後のこの日は、わずか40のテントを数えただけだった。急激に夏山シーズンの終わりがやってきた気配だった。

 翌日は4時に起床。朝食の準備をするうちに夜が明けた。涸沢を囲む岸壁が、朝日を受けて金色に輝く。それは素晴らしい景色だった。斜面を見上げれば、早くに出立した登山者が、既に高い所を歩いていた。

 テントをたたんで出発。穂高岳山荘が建っている白出のコルを目指す。途中のザイテングラードで、手を使って登る部分がある。そこが、とりあえずこの先の難コースに向けてのウォームアップの場となった。背中の荷物は特に障害とならない。これなら行けそうだ。

 穂高岳山荘にザックを置いて、奥穂高岳を往復した。山頂に着いてしばらくすると、学生の集団が登ってきた。そして方向指示盤や祠のところに群がって上がり、大はしゃぎをしていた。雲の合間に槍ヶ岳の山頂が、現れたり消えたりを繰り返していた。我々は槍ヶ岳をバックに記念撮影を試みた。山頂が見えるたびに慌ててポーズを取ろうとして、累々と重なる岩石に足を取られてよろめいた。その姿が滑稽だった。

 穂高岳山荘に戻り、昼食をとった。西側から強い風がガスを伴って吹き付ける。しかし、先へ進むのを躊躇するような天気ではない。再びザックを背負い、涸沢岳へ。山頂までのラクな登山道が終わり、下りにかかると、突然絶壁のような難路に変わった。

岩を掴んできわどい斜面を降りる。所々は断崖で、鎖や梯子が設置してある。たまにすれ違う登山者は、例によって中高年が多いのだが、みんな緊張した面持ちだ。その中でも見ていてギョッとしたのは、ロープを結んで連なった4人組。一人滑落すれば、芋づる式に落ちてしまうだろうに。

 私は、今回の山行を実施するにあたり、重荷を担いでの岩場の通過に、不安を抱いていた。若い頃は苦もなくやれたことが、この年齢、この体ではどうだろうか。今回と同様のシチュエーションは、二十数年前に経験したのが最後である。しかしいざ現場で課題に直面すると、不安は解消した。体の動きは悪くない。高度感のある場面でも、恐怖心より充実感が勝った。

 むろん、日常的にトレーニングをしているとはいえ、若い時のような体力、筋力は無いし、バランス感覚も衰えている。しかし、それを自覚し、それなりの気遣いをすれば、危険を克服できる。自分の心と体の調和を感じながら、おぞましい岩場を一歩づつ越えて行くのは、むしろ愉悦の行為である。

 ところで、このような体験が生まれて初めてのM氏はどうだったか。この日の朝、緩い登り道を歩いている時に、私はそれとなくM氏の抱負を聞いてみた。すると、経験は無いが、自信があるとの答えだった。その自信は、仕事がらプラント建設現場でパイプラックの上を歩いたり、垂直の梯子を登ったりして、高所に慣れているからとのことだった。カラ元気は要注意だが、根拠のある自信と、それに裏付けられた前向きの意欲は好ましい。私はそれを聞いて安心した。実際岩場において、M氏の行動に不安を感じることは無かった。

 順調に進んだつもりだったが、予想以上に時間を食った。対向パーティーとのすれ違いに時間を取られたことも、一因かも知れない。午後になって疲れが出て、ペースが落ちたこともあるだろう。ともかく、北穂高岳のテント場に着いたのは、四時近かった。

 M氏はさすがに疲れたようだった。氏をテントに残し、一人で十分ほどの道のりを北穂小屋へ登った。幕営許可と、水を入手するためである。小屋は宿泊客でごったがえしていて、手続きをするまでかなり待たされた。水は3リットル買った。そのまま飲めるかと聞いたら、「大丈夫」との答えで、有り難かった。

 テントに戻ると、M氏から明日以降の行程について提案があった。今日の行動で、予定時間を大幅に超えた事が応えたらしい。疲労も高まっているので、明日予定通り大キレットを越えて槍ヶ岳まで行くのは無理そうだと言った。協議の結果、明日は涸沢に降りることにした。4時の気象通報からは、明日の晴天が読み取れた。明日はのんびりと、山の上の時間を楽しもう。

 北穂のテント場は、標高3000メートルに近い。夜間の冷え込みが心配されたが、いろいろ着込んだのが功を奏したか、ペラペラのシュラフでもなんとか持ちこたえた。

 翌朝は、朝食前に北穂の頂上へ登った。下界は雲海によって遮られていたが、雲海の上には、見渡す限り青空が広がっていた。目の前にそびえる槍ヶ岳を初めとして、数々の山頂が望まれた。その場に居合わせた人たちは、言葉少なく頭を巡らしていた。めいめいが周囲の景色に深く心を動かされているようだった。

 テント場を発つとき、MP3(デジタル・オーディオ・プレーヤー)のスイッチを入れて、イヤホンで聞きながら登って来た。これは今回始めての試みで、「登山名曲鑑賞」という新ジャンル。曲目はブルックナーの交響曲第八番。山頂で時を過ごすうちに、交響曲はフィナーレのクライマックスを迎えた。その曲が、目の前の雄大な景色のために作られたかのような錯覚を覚えた。いまだかつて経験したことのない感動に、鳥肌が立った。私一人楽しんで、M氏には寂しい思いをさせて悪かったが。

 テントに戻って朝食をとった。その後、テントの前に座って一時間ほど、M氏と真面目な話をした。別に山の上で話すような話題ではなかったが、静かで美しい自然の中での会話は、印象に残った。

 急ぐ必要はなかったが、昼食は涸沢のテント場で食べようということになり、十時頃下り始めた。南稜の最後の鎖場が終わったところで休憩し、持参した笛でアイルランド民謡を吹いていたら、後から来た登山者に「いい音ですね」と褒められた。

 正午に涸沢に着いた。今晩は涸沢に泊まるので、もう行動は終わり。予定では槍ヶ岳まで8時間かけて行くはずだったが、転向したこの日の実働は2時間であった。とりあえずテントを張り、後はのんびりと過ごした。涸沢ヒュッテの展望テラスへ出かけて、生ビールを飲んだ。真昼間だから、人がほとんど居なかった。巨大スクリーンの映画を、借り切ったような気分だった。

 夏の日の午後の涸沢。陽は惜しみなく降り注ぎ、谷底の緑は輝くようだった。青空との境に連なるのは、屏風のような、黒く重厚な岩肌。突然、稜線の縁に現れた飛行機が、岸壁で囲まれた空を二つに分けるようにして、一直線の飛行機雲を引いた。カールの底の山小屋で、テントの前で、人々は思いおもいの時間を過ごしていたのだろう。が、クリヤーでダイナミックな景観を前にして、辺りは不思議なほど静まり返っていた。圧倒的な自然の迫力が、人を黙させたのか。

  翌朝は、風がテントを叩いていた。上空の低いところを雲が流れ、天気は下り坂の気配だった。視界が悪かったので、パノラマコースは止めにして、3日前に来た道を戻ることにした。陽射しが雲で遮られて、ちょうど良いくらいに涼しかった。横尾から上高地への道すがら、梓川の谷に吹く風は、すでに秋の気配がした。



 さて、この山行で感じた「隔世の感」を三つ。

1.登山用食糧の進歩。軽量で、美味しく、失敗が無い。湯を沸かして注ぐだけで、五目飯やらちらし寿司やら、パスタが出来上がる。味噌汁の具の豆腐や「なめこ」も、乾燥食材を戻したとは思えない生々しさである。しかも、包装容器を食器代りに使うので、後始末も簡単だ。この優れものたちは、体力が無くて疲れやすく、食欲も細りがちな年配の登山者には、大きな助けになる。その反面、テントの中でジャガイモの皮をむき、人参を刻んでカレーを作った昔の食事が懐かしくもなるが。

2.山小屋のトイレの綺麗さ。昔は、テント場のトイレと言えば、プレハブの簡単な作りで、悪臭が目にしみるようなものだった。今では、テント泊りの登山者も、山小屋のトイレを使うよう指導される。涸沢ヒュッテのトイレは、登山靴のまま入れるが、小屋の内部なので、外気にさらされて順番を待つことはない。個室の数は十分にあり、その半分は洋式である。洋式に慣れた者には、これは有り難い。個室のスペースはゆったりしている。壁には綺麗な写真が掛けられていて落ち着く。ペーパーも備えつけられている。使用料として、100円を箱に入れるルールになっているが、昔の不便なトイレを知る者としては、1000円札を入れたくなってしまうくらいであった(もちろん入れなかったが)

3.涸沢と言えば、私が学生だった頃は、岩登りのベース・キャンプとして賑わったものだった。夜明け前からヘッドランプを灯して岩場へ向かうパーティーがあった。日が暮れて暗くなった岩壁に、クライマーの灯りが点々と見えることもあった。山の頂でも、登山道でも、テント場でも、ヘルメットとザイルを担いだクライマーがうろうろしていた。人気がある岩場のルートには、順番待ちの列ができた。それが今回は、一人のクライマーも見なかった。屏風岩や滝谷の岩壁を見ても、登っているパーティーは一つも無かった。流行の推移ということなのかも知れないが、あの命がけの熱狂はいったい何だったのだろうか。


(注)本記事に掲載された画像は全て、宮部博幸氏が撮影したものである。



ーー−9/8ーーー 登山名曲鑑賞 

 画像は、我が家で使ってきたソニーのウォークマンたちである。左端が元祖カセット・テープのもの、二番目がMD、そして右端がMP3(ディジタル・オーディオ・プレーヤー)。大きさの変化は見ての通りだが、重さも格段に軽くなった。古い方から順に、280g、90g、50gである。

 そして性能は、言わずもがなであるが、驚くべき進歩である。MP3は、このサイズ、この重量で、1000曲以上を録音できる。そして一回の充電で、30時間以上聴くことができる。

 音質は、ウォークマンが開発された当初から、ソニーが最も得意としてきただけあって、MP3でも素晴らしい再現性である。最近になって、ウォークマンがディジタル・オーディオ・プレーヤーの先行機種であるi-Podを販売数で抜いたとの報道があったが、その理由の一つとして、音質の良さを上げる人もいる。

 さて、この三つのウォークマンの経歴であるが、カセット・テープのものは、私が会社員時代に、英会話の教材のテープを聞くのによく使った。会社の行き帰りに、これで繰り返し英語を聞くのである。そのおかげで、かなり英会話ができるようになった(その当時)。

 MDのものは、娘が高校生だった頃、通学の行き帰りの電車の中で使っていた。私もスキーに行く時、借りたことがあった。リフトの上で聞いたことが思い出される。

 三番目のMP3は、この夏の登山に向けて購入した。山の上で音楽を聞きたかったからである。

 私がまだ大学の山岳部だったころ、穂高岳は滝谷の岩壁を登って、夕暮れの北穂山頂に立ったとき、すぐそばの北穂小屋から大音響で音楽が流れていたのを思い出す。曲はたしかバッハのオルガン曲で、パッサカリアとフーガだったと思う。その場の雄大な雰囲気と、高揚した気持ちに、音楽がピッタリとマッチして、深く感動したことを憶えている。

 それも、旧い時代の話であって、現在ではそのような演出は無いのだろう。高尚な音楽とはいえ、自然の中で人為的な音を発生させることに対して、批判的な意見もある。山小屋のオーナーの好みで、クラシックの名曲を、人気の退いた夕刻の山頂で流し、居合わせた少数の登山者が、感動を共有するなどというのは、旧き良き時代の思い出話である。

 私はその若かりし頃の懐かしい体験を、個人的に再現したいという気持ちを、ずうっと持っていた。しかし、それを実現するチャンスは、なかなか訪れなかった。ガツガツと体力にまかせて、脇目もふらずに登るスタイルが身に浸み込んでいたからである。下界の楽しみを山に持ち込むなど、軽薄なことのように感じて、思い切れなかった。

 この夏の登山を計画していた頃、この画期的な装置MP3の存在を実感した。お盆で帰省した息子が、同様の装置を持ってきていて、使い方を示してくれたからである。この小ささ、この軽さなら、登山活動に支障を来さず、楽しむことができるのではないか。昔日の欲望は急激に復活した。

 八月下旬の山行で、MP3を持って登り、試してみた。私はこれを、「登山名曲鑑賞」として位置づけようと目論んでいた。はたして山の上での音楽はどうだったのか。

 なにぶんにも初めての事なので、順調には馴染めなかった。相棒がいたので、少々の気兼ねもあった。しかし、それなりに楽しめたという実感はある。特に三日目の早朝、奇しくも思い出の北穂山頂で聞いたブルックナーの交響曲第八番は、深く胸に響いた。

 山の上に登ってまで、イヤホンで音楽を聴くなどという、チマチマとした行為に、眉をひそめる人もいるだろう。山頂では、周囲の気配に耳を澄ますべきではないかと。

 しかし現実には、山の頂上に耳を澄ますような静寂は期待できない。中高年登山者のグループがたむろして、大声を張り上げて騒々しい。そういう行状に接して不快感を抱くくらいなら、イヤホンで耳を塞ぎ、自分一人の世界に閉じこもるのも悪くない。少なくとも、彼らと比べて、他人の迷惑にはならないだろう。

 そして、幸運にも孤独な山頂を踏むチャンスがあったら、そのときは周囲の気配に耳を澄ますなり、笛を取り出して演奏するなり、MP3で交響曲を聞くなり、自分が思い付いた最良のことをすれば良い。



ーー−9/15−ーー J.クレノフ氏逝去

 木工家のジェームス・クレノフ氏が亡くなられた。9月9日、享年89歳。

 氏の名前を知る木工家は、我が国にも多いと思う。私も、まだ駆け出しの頃、木工雑誌の記事で「天才木工家」、「世界一のキャビネット職人」という触れ込みで氏の存在を知った。その後木工の先輩から、氏の著書を紹介された。

 氏の著書の代表とされる本が4冊ある。そのうちの第一作「A Cabinetmaker`s Notebook」は、現代木工クラフトの世界を変えたとも言われる名著である。私もその中に多くを学んだ。また、氏の著書を読むうちに、自分も木工家として本を書きたいという気持ちを持つようになった。色々な意味で、私はクレノフ氏に導かれた。私の著書の中にも、いくつか氏の名前が登場する記事がある。

 氏とは一度だけ面会したことがある。2001年の春に、木工仲間で米国へ取材旅行に行き、氏が教鞭を取るカレッジ・オブ・レッド・ウッドを訪れた。氏と親交のある工業デザイナーのA氏、その息子さんで、クレノフ氏の教え子にあたる青年が同行していたので、訪問は親しさに満ちたものだった。

 しかし、氏はすでに80歳の高齢で、さらに気まぐれな性格ということもあって、予定していた通りには事が運ばず、面会は短時間であった。教室の奥にある氏の工房で、自己紹介をし、記念撮影をした。氏は卓上サイズのキャビネットを製作中だった。作業台の上には作りかけの引き出しの部材が置いてあった。「引き出しが多くて、うんざりだ」と言っていたのが印象的だった。

 カレッジ・オブ・レッド・ウッドの生徒と歓談をする機会があった。ある20代半ばの女性。スェーデン出身で、ハーバード大学で環境工学を学んだ後、卒業してしばらくその方面の仕事に就いたが、辞めて木工の勉強を始めたとのこと。「なぜその仕事を辞めたのですか?」と聞くと、「退屈だったからよ」と答えた。

 彼女の話によると、木工の技術に関しては、クレノフ氏よりも器用な指導者はいるし、生徒のなかにも優れた人はいる。しかし、氏のセンスやフィーリングは独特で、それにかなう者はいない。「生徒はみんな、そこに憧れて来ているのよ」と言った。

 短時間の面会だったので、氏の魅力の奥深いところまで接することはできなかったが、思い出に残る訪問であった。



ーーー9/22ーーー 炭を食べる

 私は、図体が大きいくせに、お腹が弱い。つまり、些細なことで腹が痛くなり、下してしまう。牛乳など、怖くて飲めない。冷たい牛乳に氷まで入れて、ガブ飲みする家内を見ると、それだけでお腹がキューっとなる。

 特に夏は良くない。冷たいものを口にしがちなのと、薄着で過ごして、うっかり冷えてしまうことが原因だろう。

 そんな私だが、この夏はお腹に良い事を二つ見つけた。それは、梅肉エキスと炭の粉である。

 どちらも馴染みの鍼灸医から教わった。梅肉エキスは、いかにも体に良さそうだが、炭の粉は初耳である。ネットで調べてみたら、確かに胃腸を整える効果があると書いてあった。昔から炭焼き職人は、胃腸の具合が悪くなると、炭をかじったらしい。「炭焼き職人に胃腸病なし」という言葉もあるようだ。

 自分で炭を作って、それを粉にして飲めばよいと言われて、やってみた。真夏のさ中に、薪ストーブで木を燃やす。そして火勢が強くなったところで通風口を閉める。原理的にはこれで炭ができるはずだ。ところが、結構難しい。燃え尽きてしまったり、逆に生焼けだったり。考えてみれば、可燃性の物質を燃やしながら、ちょうど具合の良いところで燃焼を止めるのだから、難しいはずである。炭焼き名人などという言葉があるくらいだから、やはり簡単にはできないし、上手くやるには特別の技術が要るのだろう。

 それはともかく、なんとか出来上がった炭を、木工ヤスリで削って粉にし、飲んでみた。飲んでしばらくすると、軽い寒気を覚えた。これは、消化できないものを飲み込んだことによる生体反応だと思われた。バリウムを飲んだ後の感じに似ていた。

 24時間以内に、軽い下痢をした。これは、腹痛を伴わないもので、たぶん腸内を炭が掃除したことによるのだろうと、勝手に解釈した。その後は調子が良くなった。消化器の中の良くない物質が、きれいさっぱりと洗い流されたような感覚で、とてもスッキリとした。

 自作の炭は、すぐに底をついた。そこでネット通販で購入した。竹炭粉である。届いたものは、とても粒度が細かく、自作のものとは別物の様相を呈していた。スプーンですくって口に含むと、クリームのような触感だった。説明書に書いてあった使用量は、直接飲用する場合は耳かき数杯程度ということだった。自作の炭は、ザラザラした粒が混じっていたが、スプーン一杯飲んでいた。ちょっと多すぎたようである。

 この竹炭粉も、お腹をきれいにする効果がある。すでにお腹の調子が良くなっているので、劇的な変化は感じられなかったが、いかにも良さそうな感触はあった。家内もこの物質を、私に勧められて使いだした(某芸能人のようなストーリーである)。そうしたら、やはり調子が良いと。あれだけお腹が丈夫な人も認めるのだから、確かに効果はあるのだろう。



ーー−9/29−ーー 人間国宝講演会

 
先週の土曜日、長野県信濃美術館で開催中の「日本のわざと美」展を見に行った。様々なジャンルの人間国宝(重要無形文化財保持者)の作品を揃えた展覧会である。会期は長いが、あえてこの日を選んだのは、木工芸の人間国宝大坂弘道氏による講演会「木工芸の魅力」を合わせて聴くためであった。

 人間国宝などというと、気難しい、威張った感じの人が多いように感じるが、氏は温厚で気さくなお人柄だった。東京学芸大学を出られ、教員生活をされていたこともあってか、お話も達者で、私の隣で聴いていた家内のような素人にとっても、「とても楽しかった」そうである。1時間半の講演は、いつの間にか終わりの時刻となっていた。

 氏が得意とされるジャンルは、細密な象嵌細工とのことで、私のような家具作りとは全く別方面である。しかし、大いに勉強になった。聴きに行って良かったと思った。

 講演会の場で配布された資料(A4版、19ページの冊子)も、興味深く、得難い内容であった。それは氏の作品の一つ「黒柿蘇芳染拭漆宝相華文嵌荘香座」の製作工程を解説したものである。その作品の制作工程見本は本展示の中にあり、講演会に先立って拝見した。現物を見ても、どうやって作ったのか理解できなかった。

 講演会が終わった後、氏は持参したいくつかの作品と、制作途中のパーツを机の上に並べて、説明をしてくれた。それによって初めて、上述の作品がどのようにして作られたかが理解できた。と同時に、とうてい真似のできない技であることも分かった。まさに驚異の精密加工である。それを氏は講演の中で、正倉院の木工芸品の中に見出した魅力だと述べた。曰く「微細の美」であると。

 氏は72歳であるが、今でも毎日制作をしているとのことだった。工芸界の大御所ともなれば、制作は弟子にやらせて、自らは名誉職におさまっている人も多いと聴く。氏のお話からは、実際に制作の現場で日夜研鑽を積まれている様子が、はっきりと伝わってきた。そして、制作の話をするときの何と楽しげなことか。私は、モノ作りを生業とする者として、なんだか励まされたような気がした。

 講演会後、氏を囲んで質疑応答の場となった。氏は問われるままに、加工技術についてスラスラと説明した。「今度これを試してみなさい、便利ですよ」などとも言われた。ある参加者が、「秘伝の技を教えてしまって良いのですか」と皮肉った。氏は笑顔のまま向き直り、「私は聞かれれば何でも答えます。それで良い作品を作ってもらった方が良いでしょう」と答えた。





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